音楽物

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狭い箱の中、気持ち悪いくらいの熱気と湿気のせいで体の水分は飛んでしまい。
いつの間にか口の中の水分はなくなってしまっていて。
それでも俺はギターを弾き鳴らす。
後ろから聞こえるのは彼女の歌声。
俺が聞きたかった一番の歌だ。
ははっ、その歌を肩を並べて聴いてるんだぜ。
最高に気持ちいい。
主人公「あ〜、今なら死んでもいいかも」
もちろん俺の声はマイクを通さず、観客と彼女の歌声の中に掻き消える。
ただ、死に物狂いでギターを弾く。
腕の筋肉が引きつりそうだ。痛い。でも動かす。
この歌が終わったら死んでもいいから。
彼女に歌わせてみせる。
最後まで。
曲はいつの間にか最後のサビに入ろうとしていて。
ドラムもキーボードも人に見せられないくらいにひどい顔をしていて。
それでも笑っていた。
俺の顔も人に見せられないくらいひどいのかもしれない。
それなのに彼女の顔は今まで見たことないくらいに綺麗に輝いていて。
楽しそうで。
その笑顔を掻き消したくなくて。
主人公「っく!」
でも、腕がっ―――
悲鳴を上げて、感覚なんてなくて。
今からが一番盛り上がるところなのに。
俺にロックなんて無理だったのかな。
その時、俺の背中に何かが触れた。
温かくて、汗臭い箱の中なのにほんのりと甘い香りがして。
それが彼女の温もりだと気付いて。
彼女が僕の背中越しに歌っていると分かって。
涙が零れ落ちそうになった。
お互いに体重をかけてバランスをとる。
彼女と背中合わせにリズムを刻んでいく。
彼女の歌声が背中を通して響き渡る。
彼女の歌声が自由を刻む。
感覚がないのなら壊れるまで使ってしまおう。
この最高な時間のためなら悔いなんてない。
こうしていることが俺の夢だから―――
歌が終わる。
一瞬の静けさ。
俺と彼女の呼吸音だけが聞こえる。
そして、耳が壊れるくらいの歓声。
彼女 「みんなっ! ありがと〜!」
僕にかかっていた重さは無くなっていて。
少し背中が寂しくなった代わりに彼女はステージの真ん中に立って観客に手を振った。
それに答えるように観客からいろんな声が飛び交う。
彼女が僕に振り返り近づいてきた。
そして、突然唇を重ねた。
それは恐ろしいくらいにあっけなくて。
俺は何が起きたのか理解できていなくて。
彼女は俺の手を握って駆け出した。
もう片方の手でギターを押さえながら彼女についていく。
ステージから二人で逃げるようにして去っていく。
背後からはものすごい声が聞こえてきた。
ドラムもキーボードも呆気に取られてるんだろうな。
彼女 「ふふっ、あはははっ」
箱から逃げ出すと彼女の笑い声が聞こえた。
主人公「ちょっ、いいのかよ」
彼女 「いいのっ!」
彼女が行く道をついていく。
真夏の太陽は熱かったが、会場に比べれば全然平気だな。
彼女 「あ〜、気持ちよかった」
主人公「そうだな」
彼女 「さ、どこに行こうか」
どこでもいい。
彼女と一緒なら。どこにだっていける。
だから
俺達は
行き先を何も言わずに
歩き始めた。


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